マリア


顔はたまにだけ見せることにした。。

93年に帰国 

T-BOLAN『SHAKE IT』で、作詞家(ペンネーム■■■■)DEBUT オリコン1位

’94年 同バンドボーカリストと結婚

’95年 医師から多重人格障害(12人)の診断をされる。てゆうか、バレる。治療を受けはじめる

96年 12人で逃げる。

’97年 別居。

’98年 MERRYMERRYMARY『僕は空を見上げていた ビルの隙間の自由を見上げていた』で、歌DEBUT

’99年 人嫌いになる。六本木から八ヶ岳に閉じこもる。

上記のうち、嵐士のことと、障害のことを覗いたものが、ぼくの、おおやけにされてる「帰国後」のプロフィールです。

帰国前、つまりLosAngelsにいるあいだ、ぼくは、JusitifyMaryでguitaristをしていました。
 

そのもっと前、日本で、ぼくはずっと精神病院にいれられてました。

何度もくりかえしては、見つけられていた、「脱走」がついに成功し

ぼくは渡米しました。

二度とつかまりたくなかった。

15歳の時でした。
 
 

檻の外にでたくてでたくでしょうがなかった。

本当は普通に学校だって行きたかった。

ひとりでどこまでも行ってみたかった。
 
 

ようやく憧れの「外」にでた感想は、
 
 

「外」は

永遠に退院できない病院みたいだなって思いました。

おどろきました。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

うまれた時は、お父さんがいて、お母さんがいた。
お父さんはちいさな娘を犯すような最低最悪の哀れな男だった。
だけどそのことは15年たってやっと少しずつこうして話せるようになった。
僕は、誰にも心を閉ざして、精神病院にいれられたまま、J・Dサリンジャーを夢中になって病棟で読んでいた。父親のことは最近は死んでくれたら許せるかもしれないと思うようになった。あいつはきっと頭がおかしいんだろう。僕のかわりに精神病院に閉じ込められているべきだった。
2番目のお父さんは、聾唖者の人だった。耳が聞こえないから、いつも手話で会話した。
僕は子供の頃から音楽が好きだったけれど、その耳の聞こえないお父さんが来てから、家の中で歌を口ずさむだけでもビンタが飛んできた。
とにかく、家の中ではテレビからなにから音のなるメディアは禁止だった。
僕がこんなに大好きな音楽はこのお父さんには届かない。そのことについて、子供の時にいっぱい考えた。
押し入れの奥で見つけたボロボロのラジオをこっそり持ち出して、近くの公園に行って、ベンチに座って朝までよく聞いていた。
帰ってきてまたぶたれた。
2番目のお父さんも別れた。
心のとびらが閉じっぱなしの子供のぼくは、閉鎖病棟、たまに家、たまに学校、また入院。
そのおかげで学校はほとんど行ってないけど、必要だと思われることは自分で学んでみた。
結局、裸足のまま、何時間も走って走って、脱走したわけだけど、
そして、今はこの目の前の、ため息に溢れた街の中でなにが起こるのかもわからないけれど
僕はいつもなにかに追い掛けられているように感じるんだ。
ギターを弾いていると頭がからっぽになるよね。
そんなふうでいたいよ。いまは。

2000年 JUICE THE PUNKでライブとかしています。
正しい生き方もなく悪い生き方もなく、生き方はなんでもありさ。



 
 
 
 
 
 
 
 

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