飯田橋で会ったのは、
それはすごく、なんていうか、好きな匂いのする人達で、職業はライターで、その後、その中の一人の人から、取材を申し込まれて、うまれてはじめて、あんなヘンな話、あんなふうにすることになったんだけど。

その後に、ミラノとニューヨークからやってきたのは、ドキュメンタリー番組つくったりとか、WEBを使って情報配信とかやってるヒト達で、そのインタビューで、マリアは、一度もカメラのほうを見ないまま話し続けたんだけど、

記者。

記者の人と接すること、かつて数回。
初めては、嵐士とのことで週刊誌のヒトが駐車場のところまでやってきてた。
知らない人達からの電話が鳴り続けて、知らない人達からの手紙やメモが、ドアや車のワイパーに挟んであった。
どうしようもなく、逃げ場もなく、イヤな思いをしていた。

そのあと、曲をかいて歌を歌ってデビューした時に、音楽雑誌の取材。
はじめは真剣に答えようという心構えでいたけど、話しても話しても、なんにも伝わらないような気がしていた。
帰って、ギター弾きたいな。そんなふうなコト考えながら、初めて会う誰かの質問に答えていた。

そうして、こないだの週刊■■■のやつと、ミラノとニューヨークのやつ。

どうして死にたい症候群をつくろうと思ったの?
前にラジオ番組をやっていた時に、10代のコ達からたくさん手紙をもらって、その中に死にたいとか、生きるべき目標がみつからないとか、なにもやる気がおきないというヘビーな内容の手紙をたくさんもらって、でもそういう種類の手紙はディレクターがとりあげさせてはくれないんだけど、そのことがすごく気になってて、ずいぶん考えこんで、なぜなら、それは、僕がふだん感じている気持ちと似ていたから。
大人になるまで生きてきたけど、本当にこの社会はなにかがんばってやる程、価値があるんだろうか、本当は生きたいと進んで望むようなことなんかなんにもないんじゃないかなって。

人々はどうして死にたいのだと思う?
わからないわからないわからないわからない。
わかんない質問をいっぱいされた。
カメラが無遠慮にマリアの顔をアップにうつしだす。

僕はなんにもこたえなど、見つけてなくて、
膝をかかえて、しゃがみこんでる君になんにも教えてあげることなど出来なくて。
どっちに歩いていけば、君の涙が消えるような陽だまりがあるのかさえ、しめせなくて、
だけど、地図にはないけど、僕たちがたどりつく場所はきっとあるから
手をつないで、君と
迷いながら、一緒に歩いていくだけなんだ。

そういう歌をつくったんだよ。